山村薫先生「音楽と修辞学」

2週間に1回行われている大学の演奏研究所の講演も残すところわずかとなりました。

今日は、山村薫先生によるピアノ教育論ですが、教育からは少し離れ、「18世紀鍵盤音楽を現代のピアノで演奏するにあたって」というタイトルで、レトリック(修辞学)についてお話しされました。
レトリックに関しては、チェンバロ奏者の大塚直哉先生が、エマニヌエル・バッハなどを題材に詳しく述べられたことがありますが、今日は、弁論術からマッテソンの理論にまで議論を広げられ、また現代ピアノの立場からのエマヌエル・バッハのファンタジー演奏について、またモーツァルトのファンタジーのCD聴き比べなどをされながら、アーティキュレーションの問題に触れられました。
「話す」ことと「演奏する」ことの共通点は多く、いかに「話すか」を音符の世界で追及するのが演奏者です。
どんな抑揚で、どんな声音で、どんな表情で、どんなジェスチャーで、ということがそのまま相手に伝わり、心を動かしていきます。
アメリカにいらした山村先生が、英語で話したあとピアノを弾く方が、日本語で話したあとでピアノを弾くより易しいのは、アクセントと短長のある付点のリズムからくるものと分析しておられます。

そういえば、一昨日新幹線で帰ってくるとき、「次は品川」とアナウンスがありましたが、そのあと英語のアナウンスでは「シーナガーワ」と、長い短い、強い弱いのアクセントがつく発音に変わることを思い出しました。
英語圏の人にとっては、「し・な・が・わ」と平らに発音するのは難しく、いつもの言語感覚で強弱をつけてしまう、ということなのでしょう。
逆に言うと日本人的演奏からの脱却のためには、この言語感覚が必要で、しかも自由なファンタジーの演奏に至っては、ふつうにやっていたのではほとんど伝わらない、ということかもしれません。

演奏家が直面する問題に、真正面から向き合われた山村先生のレクチャーでした。

コメント

  1. yuko より:

    国際派NISHISANのお名前も国によって違って聞こえる感じではありませんでしょうか。
    私はフランスに行ったとき、Hを発音しないので、イザモートさんと呼ばれ、別人が呼ばれているのかと思いました(笑)。

  2. nishisan より:

    品川、シーナガーワ…、音楽常識が無いけれどなんとなく、分かったような気がします。